2011年5月 | 親の介護☆泣くな騒ぐな寿司食いネエ!

2011年5月

福祉を学んで母親を介護

2011年05月16日(月)

『親の介護情報館』というサイトを立ち上げた、愛称・ポテちゃんです。

ポテは実母の介護を5年間実体験しました。母親とは感情的にあまりしっくりしない仲だったので、介護をしている間も、子供のころから母に持っていたちょっと「憎悪」にも似た複雑な感情や、母の介護を任せきりにして仕事に打ち込む姉への反発などが重なり続け、やがて心の中で消化しきれないほどのさまざまな葛藤に苦しみ、肉体的にも精神的にも追い込まれてしまいました。

姉の結婚を機に(姉は超晩婚!)母を自宅に引き取ってからというもの、1週間一緒にいるだけで息が詰まってしまうようになり、5日おきぐらいに近くの「特別養護老人ホーム」のデイサービスやショートステイを利用しては現実逃避を繰り返していました。福祉に携わる方たちというのはおしなべて若い方が多く(肉体労働ですものね)、そんな私の心の葛藤を受け止めてくる受け皿としては人間的にあまりに未熟な感じがしてしまい、ずっと心を隠していました。

この苦しみから逃れるにはどうしたらいいだろう・・・そう思い続けていたある日、「社会福祉士」も資格を取ってみようという気持ちになりました。福祉ってそもそもなんなんだろう、どうすれば介護する人も介護される人も幸せになれるのだろう。専門的な勉強をすれば、きっとそんな数々の問題にも自分自身の頭で回答が得られるようになるだろうと、そう思ってのことでした。

母を抱えていますから、大学に通学する時間的な余裕はありません。そこで、某大学の社会学部・社会福祉学科の通信教育部に3年編入をしました。通信なら片手間でもいいかなと、そんな甘い気持ちでいたのですが、予想に反してレポートの提出に追われ、夏のスクーリングのために1週間近く家を空けなければないという結構ハードな生活が待ち受けていました。

その間は母をショートステイに預けなければなりませんでした。介護を息長く続けるためには、割り切って福祉施設を利用するべきだという言い訳を作って自分を納得させていたのですが、この選択は、後々深い後悔となって私を苦しめることになりました。

どんな後悔が今私の胸の中にあるのか、介護はどんな問題を抱えているのかを、サイトとブログを通じて介護の最中にいらっしゃっる方にお伝えしてゆければと思っています。「苦しんでいるのは自分だけではない」そう思えるようになると、介護もずいぶん楽になると思います。そうなって頂きたいという期待もこめて、がんばってブログを更新していきますよ~っ!

孝行娘という仮面

2011年05月17日(火)

母を自宅に呼び寄せた時には、母に認知症の症状はあまり認められませんでした。ただ、その数年前に罹患した「帯状疱疹」の痛みがかなり残っていて、ちょっと触られただけでも大袈裟に痛みを訴えるということがあって、そんな時には、ただでさえ気難しい性格の母が手に負えないほど気難しくなってしまい、ハンドルがきかなくなった車が突進してくるような、そんな恐怖と不安を感じました。

痛みが始終襲ってきたためなのでしょう、周囲の話を真剣に聞くこともなくなり、会話にも参加しなくなった母を見て、周囲も私も認知症を疑うようになりました。でも、たぶんその時は、せいぜいボーダー程度だったと思います。認知症を確信するようになったのは、それから数年経ってからのことでした。姉に時間的な余裕ができたので母を預かってもらおうと姉の家に連れていったところ、「ここはどこかしら?見たことはあるようなんだけれど」と不思議そうな顔をしていたのです。何度も遊びに行っている家なのに。

重症ではなく、いわゆる「まだらボケ」のような認知症になってしまった母。まだらなだけに、正常な状態の時にはかなりの不安を抱えていたと思います。そんな母のことを以前にもまして大事にしてあげなければいけなかったのに、私は、あまり状況が理解できない、把握できないということをいいことに、福祉施設にしばしば預けるようになってしまったのです。「介護を息長く続けるためには、福祉の専門家と連携するのが一番」なんていう、自分に都合の良い言い訳を作って。

デイサービスはほぼ一日おきに利用しました。今思うと、母は行きたくなかったんだと思います。娘の家にいることへの負い目から、気持ちを奮い立たせて出かけていたのです。特別養護老人ホームというのは周知のとおり、介護が必要な方たちをお世話している施設です。肢体が不自由な方、認知症の方、中には精神疾患を持っていらっしゃる方もいます。ですから、施設に行ってどなたかと親しく世間話をするなどといったことは期待できません。母はかろうじて、施設の職員の方たちとの会話を楽しんでいたようでした。

日課は幼稚園のようで、午前中にお風呂に入り、後は折り紙を折ったり工作をしたり、時々音楽のボランティアの方などがいらっしゃるようでしたが、その時にも童謡を歌うだけでした。できあがった工作を見るたびに、母がこれまでに作り上げてきた人生を根こそぎ覆されてしまったようで、切ない気持ちでいっぱいになりました。それでも、母を全面的に自宅で介護するという気持ちにはならなかったのです。それどころか、以前にも増して母親を疎ましく思うようになっていたように思います。

それと同時に、そんな感情になってしまう自分を否定し、自己嫌悪に陥るようになりました。苦しい胸の内を誰かに話したい、聞いてもらいたいと思いましたが、でも、誰にも本当の気持ちなんて話すことはできません。きっと世間に対し「親孝行な娘」を演じていたかったのでしょう。こうして書きながらも、その時の自分の残酷さを責める気持ちが湧きあがってきます。辛いですね。

料理を作っても食べてくれない

2011年05月18日(水)

母親の介護。最初の頃は親孝行をしてあげようという気持ちでいっぱいでしたし、ゆったりと過ごす母を見てそれなりに満足してもいたのですが、日を経るに従って母の介護度が高くなってくると、こんな生活がいつまで続くのだろうという思いが次第に強くなっていきました。母が極端に偏食だったことが、私の気持ちをさらに苛立たせてしまっていたように思います。

そんなことぐらいで?と思うかもしれませんが、介護というのは、普段ならなんでもないような日常の小さな出来事が積み重ることで自分がどんどん縛られ、身動きがとれなくなっていくような気持ちになってしまうものなのです。たとえば焼きソバ、おにぎり、スパゲッティ・・・など、簡単に作れる料理には一切手をつけてくれませんでした。一口食べると箸を置いてしまうのです。「嫌い?」と聞くと「年寄りはこれぐらいしか食べられないのよ」と言います。いえ、そんなことはないのです。お刺身(食べるのは上トロだけで赤身は食べませんでした。)や、手の込んだ料理ならいくらでも食べていたのですから。

私は趣味と言えるほど料理を作るのが好きですから、手の込んだものを作ることはまったく苦になりません。でも、仕事がたて込んでいる時や体調の悪い時には簡単な料理しか作れません。大変な思いをして作ったものを大半残されてしまった時の、なんとも言えない虚脱感。

外出をする時には簡単に食べられるものをと思ってお弁当を作って置いていくのですが、これも手をつけてくれません、お弁当が嫌いなのです。それならとおにぎりを置いていけば、これもまた少し齧ったままでテーブルの上に残されています。口に合わないものは、どれほどお腹が空いていても手をつけないのです。

そんなこんなで外出ひとつするのも気が重くなり、そのうち、自由が束縛されていることへの言いようのない鬱陶しさを感じるようになっていきました。もう蜘蛛の糸に絡み取られた蝉のよう。もがけばもがくほど苦しくなってゆくばかりでした。

これは余談ですが、おにぎりが嫌い・・・という人をあまり知らないので、母がおにぎりに手をつけないことをとても不思議に思っていましたが、今思うと、子供の頃に受けたトラウマがあったのかも知れません。口には出しませんでしたが、家庭環境に恵まれない幼少時代をすごしていたようですから。理解をしてあげれば良かったと思ったのは、母が亡くなってからのことでした。

介護は長女がするもの?

2011年05月19日(木)

親の介護は長女・長男の仕事と思っている方が多いようですが、私の周りで介護をしている人といえば、なぜか次女であったり次男であったり・・・。長女・長男は遠方に住み、なにかことがあった時にはしっかり口を挟んでくるというケースが案外多いようです。かくいう私も次女です。長女の姉は、私が母を預かって介護を始めてからというもの、仕事が忙しいという理由をつけて、ほとんど母親の面倒を見ることはなくなりました。

そんな姉ですが、私が結婚する時には、母の面倒を押し付けて結婚する気かと散々私を非難し、母の面倒がいつでも見られるように近所に住めと、半ば命令の形で迫ったりもしました。結婚後、夫と旅行に行けば「私に母を押し付けて自分たちだけが楽しむのか」と執拗に責められましたし、「何時に電話してもいなかったけれど、どこに行っていたのか」と毎日のように電話がかかり、監視されているような生活が続きました。幸い夫に理解があったので、ひとつひとつクリアすることができましたが、母を引き取るまで大変な思いをしました。

父を亡くしてからというもの、母はひたすら子供たちに依存して暮らしていましたから、母との生活は常に「面倒をみなければならない」「支えなければならない」という、心理的な圧迫感を子供に与えていました。今にして思えば、姉にとってそれがかなり負担になっていたのでしょう。母の存在が姉の結婚を遠ざけていたのも事実で、だから一日も早く母の束縛から解放されたいと思っていたのではないでしょうか。それなのに私は結婚して家を離れてしまおうとしている。それが姉には許せなかったのだと思います。

私が母を預かってから姉は結婚をしましたが、それから母が亡くなるまでの5年間というもの、姉と私の葛藤は続きました。母はあれほど母親思いのそぶりを見せていた姉が、いざ介護が始まると急に疎遠になってしまったのを見て、どう思っていたのでしょう。母にとっては私より姉のほうがずっと頼りになる存在だったはずなのです。そして自慢の娘でした。私と母にはどこかしら相容れないものがあったのです・・・。

介護が終わって財産残って

2011年05月20日(金)

私の場合、母が亡くなったことが契機となって姉との関係が改善されました。財産問題などで特に揉めなかったことが幸いしたのだと思います。でもたいていの場合、財産の問題が関わってくると、当事者亡き後も大変なことになるようです。私の近所に住む女性は次女ですが、遠く離れて住む2人の姉に代わって母親の介護を引き受けていました。この方の母親はかなり進んだ認知症で、夕方になるとしばしば徘徊を繰り返していました。

私が引っ越してきた当時はまだ顕著な症状は見られなかったのですが、1年、2年と経つうちに「娘は幼稚園に行っています」などと言うようになり、それから急激に認知症が進んでしまったようでした。幸いご近所同士に理解があったので、徘徊している母親に声をかけてくれたり、女性が帰宅するまで家の中に呼び寄せてくれたりで、大きな事故もなく過ごしていましたが、この状態では自宅での介護は難しくなります。ついに特別養護老人ホームに入所させることにしました。

その途端、普段は電話すらかけてこない姉2人が「なぜ入所させる」「なぜ家で面倒を見ない」と言って家に乗り込んできたそうです。母親をホームに入所させるのは家の恥だというのです。そこまで言うのなら、自分たちが介護を引き受ければよいものを、そういう提案は絶対にしません。身勝手なものですね。散々揉めたそうですが、どうしても家では見られないという結論に達し、ついにホームに入所させました。それから亡くなるまで5年間、姉2人はついぞホームに母親を訪ねることはありませんでしたが、母親が亡くなった途端、介護放棄していたことなどどこ吹く風、財産の分与を要求してきたそうです。しかも対等に分けろと・・・。

民法上では「寄与分」という制度が認められていて、介護した人にはそれなりの寄与分を要求することができるらしいのですが、肉親の介護の場合「扶養の範囲」ということになり、なかなか認められないようです。「介護損」なんていう言葉は言いたくありませんが、もう少し介護者が報われるような法整備があってもいいように思います。感情では片付かない介護。だからこそ法を頼りにしたいのです。


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