2011年6月 | 親の介護☆泣くな騒ぐな寿司食いネエ!

2011年6月

姉との確執

2011年06月01日(水)

母の介護をめぐっての姉との確執は、母が亡くなるまで続きました。母と姉は一卵性双生児を思わせるほど性格がよく似ていて、いつもべったりしている関係でした。母も私より姉のほうがずっと話しやすかったように思います。ひねくれた言い方をすれば、母は、私よりも姉のほうが可愛いかったに違いありません。母は両親を早くに亡くしたため、親戚の家で育ちました。そのせいでしょうか、家庭というものがどういうものか、母親というものがどういう役割を担えばよいのか、あまりよくわかっていなかったように思います。

掃除も洗濯も料理も、家事という家事は手を抜きませんでしたし、お菓子も手作り、洋服も手作りというほど家庭や子供を大切にしていたのですが、それだけで幸せを感じていられるのは子供の時だけなのです。成長するに従い、子供の抱える悩みごとに向き合おうとしない母に、アドヴァイスというもののできない母に幻滅してゆきました。特に私は母の感情の起伏の激しさに辟易し、次第に自分の本当の気持ちを母に伝えることを避けるようになっていったのです。姉の性格も母に似ていましたから、母と姉に挟まれた私は、家にいることさえ苦痛になっていました。

母と暮らすようになっても、その時に閉ざした心を開くことがどうしてもできませんでした。母と二人だけになると何も話すことがないのです。話したいという気持ちになりませんでした。母は、心が通じあう姉と最後まで暮らすほうが幸せだったと思います。私はどこか冷めていたのです。心の底から暖かく母に接することができなかったのです。そんな私の気持ちを感じとっていたのでしょう、ある日私の手を取って「あら、なんて冷たい手!あなたは心が冷たいからよ」と母が私に言いました。介護にせいいっぱい尽くしているつもりだった私でしたが、しっかり心を読み取られていたのです。

母を引き取ってからというもの、あれほど母思いに見えていた姉からの連絡は、よほどの用事でもないかぎりくることはありませんでした。かねてからあった姉に対する確執は、母の介護を通してますます強固なものになってしまいました。

福祉職の報酬は安すぎる?

2011年06月02日(木)

介護の仕事に携わる人が減ってきているようですね。先日ある会合で福祉系の大学の先生とお会いしたのですが、年々学生数が減るいっぽうだとボヤいていました。福祉の専門学校などでは、募集定員が集まらず閉校してしまう所もボチボチでてきているのだとか。福祉系の大学はまだ人気があると聞いていたのですが、どうやらそうでもなさそうですね。この間、社会福祉士の仲間と会った時、最近はお下の世話を嫌がる人が増えているという話を聞いたばかりでしたが、今回会合でご一緒した特別養護老人ホームの施設長も「うんちの世話をしたくないと言って、しょっちゅう休む子がいて困る」と話していました。

福祉というのは、人が困っていることに手を貸すことに意義がありますから、排泄介助というのはものすごく大切な仕事のひとつなんですよね。それが嫌となると、福祉の仕事には向いていないということになります。でも思うんですよね、ゲンキンなようですが、それなりの報酬が確保されていれば、そうした仕事にも使命感を持つことができるのではないかと。

安い報酬というのは、仕事の価値が認められていないという抵抗感につながります。求人案内を見ると、看護士が月給25万円の手取りだとすると介護士はその半分に近い15万円以下。年収200万円で、仕事にやりがいや継続を求めるのは難しいように思います。福祉はお金じゃないという反論もあるかもしれませんが、賃金というのは多くの場合、労働に対する対価として支払われますから、安い仕事に誇りを持つというのはやはり難しいんじゃないかなあという気がします。福祉を充実させるためには、福祉職をもっと優遇することが必要なのではないでしょうか。

娘の家もラクじゃない

2011年06月03日(金)

母は5年間、私の家で生活していました。でも私は介護できること、母と一緒にいられることを幸せだとは思ってはいませんでした。あの時の生活が懐かしく、また母がいとおしく思えるのは今になってのことです。夫とずっと二人だけで気ままに生活してきたこともあって、私たち以外の人間の存在が案外大きく感じられました。いつも誰かがいるという生活に馴染むことができなかったのです。子供でもいれば、あるいは義父母や祖父・祖母などと暮らした経験があれば、それほど大変だとは思わなかったでしょうが、二人の生活に侵入者が現れた、そんな気持ちになっていました。

一般的に、娘の家で介護されている親は幸せだと言われますが、案外そうではありません。娘の夫はやはり他人なのです、だから母は人一倍気を使っていたように思います。どんなに「いい人」であっても、あるいは「いい人」であればあるほど遠慮してしまうのかもわかりません。もちろん、うまくいっている家庭もあるとは思いますが、これは私の経験だけではないのです。娘のところで生活している高齢者の方に伺うと口をそろえて「気楽なんかじゃありません、面倒をかけているって思うと申し訳なくて」と言われます。今思うと、肩身の狭い思いをしていた母がかわいそうでなりません。自分には住むべき家がない・・・そんな気持ちでいたのではないでしょうか。

高齢者には坂が大変

2011年06月04日(土)

いいお天気ですね。どこかに出かけたくなるような陽気ですが、放射能が怖いし地震も怖いしで引きこもりになりそうです。こんな日はよく母を散歩に連れ出していました。亡くなる直前は歩くのもやっとで、車椅子のほうがラクチンという顔をしていましたが、歩けなくなってしまってはと思い、晴れた日には近所を散歩するようにしていました。私の家は緩い坂の上にありますが、坂というのはたとえ傾斜が緩くても高齢者にとってはとても大変で、特に坂を下りるのを怖がっていました。体の重心が支えられなくなってしまうようです。しっかり腕をつかみ、さらにズボンのウエストを持って体を安定させるようにして坂を下りるのですが、次第に散歩そのものを行きたがらなくなってしまいました。

若い頃は坂道とか階段なんてなんとも思いませんよね。高齢になるといかにそれがネックになるかがわかりました。施設研修の時にも、高台にあるお宅の高齢者の送り迎えはほんとうに大変でした。たとえ数段でも、女性だけですと車椅子を運ぶのが大変ですが、さらに高いところに建てられている家の場合、屈強な男性職員と一緒でなければ移動は困難です。今も町を歩いていて高台の家を見ると、高齢になった時のことはきっと想像していないんだろうなあと思ったりします。見逃しがちなことですが、そしてちょっぴりお節介なようですが、家を購入するときには高齢になった時の自分を、あるいは同居する高齢者が動けなくなった時のことも考えておいたほうがいいですよ。

介護を続けるための家族の息抜き

2011年06月06日(月)

親の介護は心も体も束縛されているような感じがして、時々しっかり息抜きをしないと、道半ばで介護する側が倒れてしまうなんていうことにもなりかねません。私が今でも印象に残っているのは、本田桂子さんという方の介護日記です。父親の介護のことを書いているのですが、何を隠そう本田桂子さんというのはあの大作家、丹羽文雄さんのお嬢さんなんですね。『父・丹羽文雄介護の日々』という本を読み、あれほどの知識人だった丹羽文雄さんが認知症になり、家族に多大な労をかけたその様子を知り、人間というのは誰しもが老い、その老いを家族が引き受け、共に苦しむ時期が必ずあるのかもしれないと、自分を慰めたりしていました。

その本ですが、本箱の奥深くに入ってしまったようでみつからず、文章を引用することができないのですが、父親が徘徊しないように戸の鍵を高いところにつけるのですが、どうやって開けるのか、いくら工夫しても外にでてしまうという場面があったように記憶しています。不思議なもので、徘徊する高齢者には想像もつかないような「力」が残っているんですよね。普段一切立ち上がれないのに、徘徊する時だけはなぜかしっかりと歩いているとか・・・。私も施設でその様子を目の当たりにし、びっくりしたことがあります。桂子さんはご両親の介護をされ、ストレスのあまりアルコール依存症になり、結果的に介護疲れから過労死されてしまいました。丹羽文雄さんは100歳まで生きたのですが、桂子さんは介護の道半ば、65歳で亡くなられてしまったのです。訃報を耳にした時、人事とは思えませんでした。私もケセラセラ、そんな気持ちで介護をしないと共倒れになってしまうかもしれないと、かすかな危機感を覚えたものでした。


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