2011年8月 | 親の介護☆泣くな騒ぐな寿司食いネエ!

2011年8月

災害時の要介護者の避難

2011年08月01日(月)

東北地方は大震災の傷跡も癒えていないというのに、豪雨による多大な被害が起きています。行方不明者の中に、93歳という高齢の方がいらっしゃいました。息子さんが母親を自宅から背負って避難する途中、激流に足を取られて倒れて、母親が流されてしまったというのです。その時の光景を想像するだけで胸がつまります。息子さんの気持ちを思うと、居ても立ってもいられない思いがします。寝たきりで介護が必要な高齢者の方たち、車椅子での生活を余儀なくされている障害をお持ちの方たちは、無事避難することができたのでしょうか。

突発的な災害でしたから、行政が動く間もなかったということは理解できるのですが、今日の読売新聞に「原発と放射線 二つの『安全』」という、村上陽一郎さんのコラムが掲載されていました。すべてが賛同できる内容ではありませんでしたが、ひとつだけ心に残った言葉があります。『事前警戒原則』という言葉です。「確率的には低いことがわかっていても、安心のために、しかるべき手を打っておく」という原則なのだそうです。災害が起きた時に介護の必要な方たちを守るための避難体制を、行政は日ごろから整えておく必要があるように思います。具体的にどうすればいいのかを提案したいところですが、実は私も想定外、これだけの災害に日本が見舞われるなんて思ってもいなかったのですから、思案に暮れてしまいます。

障害のある子と母

2011年08月03日(水)

友人には2人の娘さんがいます。お姉ちゃん(Yちゃん)は小学校5年生、妹(Mちゃん)は小学校3年生です。Yちゃんには知的障害と身体障害があります。いずれも中等度の障害で車椅子の生活を余儀なくされていますが、友人は、どんな所にも必ずYちゃんを連れてきます。家に置いてくることができないという事情もあるのですが、障害があるからといって引きこもってしまうのではなく、積極的に社会との接点を持たせたいという気持ちからです。それはYちゃんばかりでなく、妹のMちゃんにも、障害のある姉がいるということに引け目を感じないようにという、そんな教育をするためでもあるんですね。Mちゃんは、そんな母親の気持ちを察してか、とても優しく育っています。

友人はといえばとにかく明るいんです。いつもニコニコと前向きに生活をしていて、子供の障害にめげることなく、その事実を真っ向から受け止め、向き合って暮らしているという強い母のイメージがあります。障害のある子供を持つ母親というのは(もちろん全部が全部ではありませんが)、総じて明るいように思うのですが、なぜなのでしょう。ある時「あなたって、いつも明るいのね」と口にしたことがありました。友人はこう答えました。「明るくしていないと潰れてしまいそうなの」と。母の介護をしていた時、ふとその友人の言葉を思い出すことがありました。介護が辛いといったん思い込んだらどこまでも奈落の底に落ちてしまいそうな、そんな危うい精神状態の時に、ふと・・・。

お風呂が嫌いになった母

2011年08月04日(木)

夏になると、母の体臭のことを思い出します。母が若かった頃は、つまり私が子供ころは、夕食後には必ずお風呂に入り、濡れた髪のまま、私たち子供と一緒にゲームを楽しんだり、テレビを観たりしていたという印象がありました。その昔、NHKで『歌の絵本』という番組があって(今もあるのかな?)、真理ヨシコさんがとても愛らしい顔でこんな歌を歌っていました。「お母さん なあに お母さんていい匂い 洗濯していた匂いでしょう シャボンの泡の匂いでしょう」。私はこの歌が好きで、小さい頃よく口ずさんでいました。私の母にもこんなイメージがあったのです。清潔な香りのする母。

ところが晩年の母は人一倍お風呂が嫌いになってしまい、放っておけば1週間でも二週間でもお風呂に入らないという、とても不精な女性になってしまいました。夏場は大変です。臭うからお風呂に入ったほうがいいと言っても、「臭いなんかまったくしないでしょ。臭い臭いってほんとうに失礼ね」と言い張り、頑としてお風呂に入ろうとしないのです。この問題が解決したのは、要介護になり、デイサービスを利用し始めてからでした。デイサービスに行くと、職員の方たちが巧みにお風呂に入れてくれるのです。施設から帰ってくると、シャボンの匂いのする母に戻っていました。清潔でいることに鈍感になっていった・・・これは認知症の初期の症状だったのかもしれません。

孝行したいのに母はなく

2011年08月09日(火)

母がもし生きていたら何をしてあげたい?時々そんなことを考えます。生きていた時に一番してあげられなかったこと、それは心から優しくすることだったと思います。だから、うんと優しくしてあげたい。母が安心できる言葉をたくさんたくさんかけてあげたい。「長生きしてね。いつまでも生きていてね。」そう言ってあげたい。

母の介護に明け暮れていた時には、母の存在が煩わしく思えてしまうことがたびたびでした。母と時間を共有していられるのはせいぜい一週間。一週間を超えると精神的に追い詰められたような感じになり、制御できないほどの苛立ちを覚えることがありました。そうなった時には主人を誘って飲みに出かけるなどして、なるべく心を解放させるようにしていましたが、それでも心の底から解放された気分になることはできません。楽しいことが大好きだった母をひとり家で留守番させていることに対する罪悪感と、今頃ひとりベットの上で何を考えているのだろうという思いで、落ち着かないのです。

そんなことが重なり、ついにうつ病の一歩手前まで追いつめられてしまいました。最悪の状態から切り抜けることができたのは、福祉のことは福祉のプロに任せよう、介護は割り切って考えよう、自分が壊れてしまう前に、デイサービスやショートステイを積極的に利用してみよう、そう思ったからでした。精神的に追い詰められる時間が減るにつれ、母と過ごす時間も苦にはならず、デイサービスの送迎車から降りてくる母がとても愛おしく感じられたりしたものでした。でも残念ながら、それでもなお心から母を迎いいれようという気持ちにはなれませんでした。

今なら・・・送迎者から降りてくる足元のおぼつかない母を抱きしめてあげることでしょう。そしてコトあるごとに、「長生きしてね、いつまでも生きていてね」と言ってあげられると思う。母亡き今、あまりに遅い親孝行の気持ちで胸がいっぱいです。

医師も福祉のプロも

2011年08月21日(日)

母の命日が近づいています。あの時もとても暑い夏でした。かかりつけの医師に何も食べられなくなってしまった母に、せめて点滴の措置などをしてあげたいと連絡すると、「その年まで生きれば十分でしょう」と動いてはくれず、だからすでに意識が無くなり、眠り続けている母の傍にただただいてあげることしかできませんでした。

今思うと、なぜあんな無責任な医師を信じていたのだろうと思います。もっと必死で、母を助けてくれる医師を探せばよかったのにと思うのです。今なら絶対にそうしています。延命措置というのは確かにいろいろな問題を含んでいるとは思いますが、何もしてあげられなかったという思いは家族の心に大きな傷跡を残してしまいます。最善を尽くさなかったという思いは、とても大きな後悔となってしまうのです。

母の介護は最初から最後まで失敗の連続、後悔ばかりが残るものとなりました。親の介護に手馴れている人は滅多にいませんが、試行錯誤しながら、家族は最善の方法を探しています。その方法をアドヴァイスできるのは福祉のプロと呼ばれる人たちでしょう。それは施設の介護職員のみならず、医師であったり、行政の福祉担当者だったりします。介護というのは人生を見つめる目、そして物事を多面的に見られる思考能力が求められる仕事です。それを誰にも求めることができませんでした。

ああ、切ない夏です・・・。


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