2011年10月 | 親の介護☆泣くな騒ぐな寿司食いネエ!

2011年10月

母の言葉と介護

2011年10月06日(木)

急に寒くなりましたね。おかげで風邪を引いてしまいました。私は小さい頃とても体が弱く、扁桃腺を腫らしては40度近い高熱を出し、一週間近く寝込んでしまうというような子でした。お医者さんは家に往診してくれるのですが、黒いかばんを持って現れるお医者さんが大嫌い。「帰れ、帰れ」と熱にうなされながらお医者さんに悪態をついていたそうです。母はりんごをすってくれたり、おかゆを作ってくれたりと、それはそれは献身的に看病をしてくれていました。

ところがある日、虫の居所が悪かったのでしょう、母が「ああ、いやだ、病気ばかりして面倒くさい子。こんなことなら私が死んでしまったほうがいいぐらい」と面と向かって私に言ったことがありました。その言葉が何十年も経った後、母の介護をする私の心を揺さぶり続けたのです。「介護なんてしたくないのよ、ああいやだ、介護するぐらいなら、私が死んだほうがよっぽどラクかもね」と、母に対して実際には言葉にすることはありませんでしたが、母が言った言葉をそっくり母に返している自分がいました。

とっくの昔に忘れていた言葉、それどころか、その時には大した悪意も感じることもなかった言葉だったのに、子供の心というのは怖いものです。ずっとずっとどこかしらに傷となって残っていたのでしょう。何気なく口にしてしまう言葉・・・それが、介護の明暗を分けてしまうことになりかねないようです。

お隣のお婆ちゃん

2011年10月14日(金)

私の家は新興住宅地にあります。新興住宅地にありがちな狭い敷地ですから、時にお隣さんの話し声が聞こえてくることがあります。普段はなんということもなく自然にやり過ごしていますが、ここのお婆ちゃんというのがとてつもなく声の大きな方なんですね。お隣さんの台所のドアはジャロジー窓になっていますから、ちょっと暑い日などはここが開いていて、ただでさえ賑やかなお婆ちゃんの声がさらに大きく響いてきます。ギャハハ、ワハハと、それはそれは楽しそうです。

お隣さんの台所に一番近い位置にあるのが、母を介護していた部屋でした。窓を開けていると、お婆ちゃんの声がとてもよく聞こえる位置にありました。そんなある日、母が急に大声で「うるさい!」とお隣に向かって怒鳴りつけたのです。ものすごく大きな声でしたから、お隣さんに聞こえたのではないかとハラハラしました。近隣関係はうまくいっていますから、こじれるようなことになったらどうしようと思いましたが、幸い、その後も笑い声がひっきりなしに続き、どうやら聞こえていなかった様子。ほっとしました。

あの時の母の、とても暗くイライラした表情を今でも思い出すことがあります。感情の抑制が効かない、母の本来の性格がむき出しになったようで、その時は母に対して憎悪に近いものを感じましたが、でも、今思うんですね、母は自分の境遇に苛立っていたのではないかと。楽しく笑い続けるお婆ちゃんの声、その声に嫉妬を感じていたのかもわかりません。そういえば私の家に来て以来、母が心の底から笑っている顔を見たことがありませんでした。帯状疱疹の後遺症で痛む左腕、特別養護老人ホームという場所で週に何日も過ごさなければならなかった身の不遇。まさか自分が介護される身になろうとは・・・。あれほど陽気だった母から笑顔を奪ってしまったのは私だったのではないでしょうか。晩年は寂しさのあまり、一人部屋で泣いていたのかもしれません。

車椅子

2011年10月18日(火)

母は杖をついてはいましたが、最後まで自力で歩くことができました。でも私に急ぎの用事があるような時には、ゆっくりした母の歩行ペースに合わせるわけにもいかず、ついつい車椅子を頼ってしまうことがありました。(東京都)大田区に住んでいる友人は、歩行困難になられたお母様の介護のために区から車椅子を借りていて、私にもよく「車椅子を借りればラクよ」と言って勧めてくれていました。私の家はバリアフリーとはいえ、車椅子が出入りできるような家のつくりではありませんから、自宅で車椅子を使うことはできません。

車椅子の利用はもっぱらスーパーや施設に限られていましたが、最後まで車椅子に頼りきらなかったのは、ある意味正解だったような気もします。自力で歩かなければならなかったからこそ、寝たきりにならずに済んだのですから。入院したら「寝たきり」になってしまったという話をよく耳にしますが、高齢者というのはたった3日寝ただけも寝たきりになってしまうことがあるのです。いわゆる「廃用症候群」というヤツですね。

「廃用症候群」というのは、使わないでいる体の部分がどんどん衰えてゆき、まったく使い物にならなくなってしまう状態を言います。健康な人でも安静にしているとたちまち筋力が低下するのがわかりますが、具体的には1週目で20%、2週目で40%、3週目で60%もの筋力が低下してしまうのだそうです。筋肉の萎縮や関節の拘縮というのはあっという間に進行してしまいますから、高齢者が「寝たきり状態」になってしまうのも無理はありません。寝たきりになってしまえば、介護者のみならず要介護者にも大変な負担がかかりますから、まずは予防です。残存能力を最大限に生かし、維持するために、動けるかぎり多少無理をしてでもリハビリのつもりで動いてもらってください。なんだか惨いことをしているような気持ちになるかもわかりませんが、それが「愛情」だと信じましょう(;´Д`)/


病院の母

2011年10月26日(水)

私の家では毎週、農家と直接契約をしているある組織にお野菜を注文していますが、毎週、野菜を入れた箱の中に、生産者のお一人が書かれたお便りのようなものが入れられているのを楽しみにしています。きょうは「コスモスと天国」という題で生産者Sさんが書かれていました。ちょっとその文章を拝借させて頂きます。

Sさんはコスモスを見るたびに、5年前の10月に亡くなられた母親を思い出して感傷的な気持ちになられるのだそうです。肺がんで亡くなられたお母様が最後に病院で過ごされた2週間、毎日欠かさず病院に行っていた親孝行なSさん・・・そのはずなのですが、Sさんの心の中はこんな思いで渦巻いていたのだそうです。

「次第に消えかかっている命を目の当たりにする度に自分までが消え入りそうに思えて、面会時間ギリギリに行ったり、眠剤が効いてウトウトと眠り続けることに行ったり、なるべく短い時間で済まそうとしている、薄情な長女でした。この立場が反対で、子供を看取る母親ならば、こんな冷たい事はしないだろうと思わずにはいられませんでした。」

そんな気持ちを癒してくれていたのが、花の苗と飼ったばかりの子犬だったそうです。病院から戻ると、成長する花を眺め子犬と戯れることで心の均衡を保とうとしていたと書かれていました。なんだかとても身につまされる文章です。私も母が腰を打って入院していた時、同じような気持ちになっていたからです。

後悔の残らない介護をされた方もたくさんいらっしゃることとは思いますが、たぶん多くの方は、親孝行をしたいという気持ちとは裏腹に、老いてゆく親、体が動かなくなくなってゆく親に冷たい仕打ちをしてしまったという後悔を、少なからず持っているのではないでしょうか。季節の花というのは、親との思い出を鮮明に思い出させます。Sさんはコスモス、私は家の門の横に咲くサザンカ・・・母親と過ごした日のことをまた思い出して、私もちょっぴり感傷的な気分になっています。

施設と病院の責任は?

2011年10月31日(月)

施設のショートステイを利用していた時、椅子から立ち上がろうとして転倒した母は入院を余儀なくされましたが、不運にも、それが私の大学のスクーリングの時期と重なっていました。結果的にはこの転倒が母の命を奪ったことになったのですが、その時の私は、まあ大丈夫だろうという軽い気持ちでこの事故を受け止めてしまい、母の介護をなおざりにしてスクーリングを優先させてしまったのです。社会福祉士の資格を取るため・・・それが理由だったのですから、まったく本末転倒としか言いようがありません。

すぐに母を病院に入院させる手続きを取り、もし私のいない間に退院ということになった時には、施設で介護をしてくれるという施設長自らの約束を信じて出かけてしまいました。病院では、母は夜中に私の名前を叫び続けていたそうです。そんな母を看護士たちは疎ましく思ったのか、食事も食べなければそのまま、飲まず食わずの状態でも点滴ひとつせずに放置してしまっていたのです。スクーリングから帰ってきて病院に行ってみると、母はすっかり衰弱していました。すぐに点滴をして欲しいと言ったのですが、これ以上の治療は必要ないといった対応だったのは、どこかに「面倒な患者」といった意識が看護士や医師の間にあったからなのかもわかりません。

母は日に日に衰弱してゆきます。あまりにひどい待遇に憤り(この病院は施設の紹介だったのですが、外観も病室もとても汚い病院でした)、別の病院を探そうと退院させた日、看護士も医師も、誰ひとりとして病院のエントランスに送ってくれることはなく、すでに意識が少し遠くなってぐったりとしている母を、私と夫は必死の思いで車に乗せました(意識のない人間というのはとても重いのです)。とりあえず家に連れ帰り、かかりつけの医師に来てもらい、今後在宅医療に切り替えたいという希望を伝えたのですが、「ここまで長生きしてきたのですから、もういいでしょう」と言って、その医師も積極的に治療に取り組む姿勢は見せませんでした。それから2週間ほどで母は亡くなりました。

母が亡くなった時に施設長が我が家を訪れましたが、転倒に関しての施設の、あるいは職員の責任については一切触れることはなく、謝罪の言葉の一言もありませんでした。病院と施設・・・今なら告訴を考えたかもわかりません。当時は母が人質に取られているような気持ちもあって、どんな状況であっても、感謝こそすれ、訴えようなどという気持ちにはまったくなりませんでした。


QLOOK ANALYTICS