2011年11月 | 親の介護☆泣くな騒ぐな寿司食いネエ!

2011年11月

施設のリクレーション

2011年11月02日(水)

今、施設のデイサービスがどういう状況かはあまりよくわからないのですが、母が行っていた頃は、施設が提供するレクリエーションのあまりのお粗末さに、がっかりしていました。「歌を歌いましょう」と言えば童謡ばかりでしたし、指先を使って何かを作りましょうというと、子供だましの工作の材料が目の前に置かれます。「今日、お母さんが作ったんですよ」と、送迎バスの職員が私に手渡してくれた工作は、あの母がここまで衰えてしまったの?という、そんな気持ちにさせられるものばかりでした。子供に返ってしまった・・・という絶望感を抱かせるものでもありました。

時々ボランティアの方がみえて、お習字を指導してくれたりということもありましたが、習字が好きだった母は、その時間がとても楽しみだったようで、施設に迎えに行った時になど、壁に貼られている自分の字を指差してはいつも自慢するのでした。

職員の頭の中には、認知症=幼稚園児という構図でもあるのでしょうか。認知症とはいえ、彼らには生きてきた長い歴史があるということを忘れてはいけません。これから育つ子供ではないのです。予算の関係でお金がかけられないということも、お粗末なレクリエーションに拍車をかけてしまっているのでしょうが、家族にとっては親はあくまでも親です、高齢者の尊厳を、そして親としての威厳を死ぬまで保っていられるような、そんな工夫をしてもらえればと、いつもいつもそう思っていました。

母のいない台所

2011年11月04日(金)

母が元気な頃に買ってくれた「ザル」が、ついに壊れてしまいました。ザルって、ザル?・・・そう、お米をとぐ時のために一工夫してあるプラスチックのザルです。まだ母が元気で台所に立っていた頃、実家に遊びに行ってそのザルをみつけ、「便利そうねえ」と言ったのを覚えていてくれて、次に遊びに行った時に手渡してくれました。20年も前の話です。ただの安っぽいピンクのザルでしたから、すぐに壊れてしまうと思っていましたが、まあよくぞ20年ももってくれたものだと感心しています。母の面影と共に20年も私の手元にいてくれたのですから。台所というのは主婦が一日のうちで一番長くいる場所ですから、そのザルが目に入らない日はなく、台所に立つたびに母の姿を思い浮かべていました。

母も一日のうちのほとんどを台所で過ごしていました。料理、お菓子作りが好きで、子供の服もほとんどお手製。料理は焼きすぎてしまう傾向があって、焦げた料理を見ては父が「お母さんの料理は衛生料理だね」とからかっていました。幸せだった時代。そんな母も次第に体力がなくなり、包丁でモノを切る力がない、鍋が重くて持てないという状態になり、次第に台所から遠ざかってしまうようになりました。私の家に住むようになってから、一度だけお茶碗を洗おうとしたことがあったのですが、私はそれを止めてしまいました。介護に追い詰められていた私の気持ちは荒んでいて、母が鬱陶しく感じられていた時でした。「私の領域を侵した」という、そんな心境だったのです。何の役にも立てない・・・母はそう思ったに違いありません。生きることの意味が見出せなくなった時、人は生きようとする気力を失ってしまうのではないでしょうか。私はそんなことに手を貸してしまったように思います。

施設での介護実習

2011年11月08日(火)

探し物をしていたら、本箱の奥のほうから「社会福祉援助技術現場実習簿」なんていうものがみつかりました。社会福祉士の資格を取るためには、福祉施設で二週間の実習をしなければなりません。その時の実習ノートです。私は特別養護老人ホームを選びましたが、知的障害関係施設、身体障害関係施設、児童福祉関係施設などから選ぶことができます。

私の選んだ施設では、軽度の認知症と重度の認知症の方たちとが別棟で生活していました。最初の一週間は軽度の認知症の方たちが生活しているA棟で、後半はB棟での実習でした。初日の実習記録にはこんなことが書かれていました。「表情の乏しい高齢者や意思の伝わりにくい利用者に対して、最初はどうしても事務的にしか声がかけられなかったが、利用者が笑顔を見せてくれたとき、この仕事は対人間なのだということを改めて思った。人は心と心で通じ合うもの。どれほど利用者が重度の認知症であっても、そうなのだと思う。実習期間の間、このことを忘れずに心の隅に置いておきたい。」

人と人は心で通じ合うもの・・・これは施設での実習の間ずっと思い続け、実践していたことでした。重度の認知症の方であっても、こちらの気持ちは通じていたと思います。でもこれは綺麗ごとかもわかりません。要介護者が他人だから言えることだったのかもわかりません。

自宅での介護では、「なにもわからない」ということが、むしろ介護する側にとって楽だったりもするのですよね、それが正直な気持ちかもしれません。いわゆる「まだらボケ」の方を介護するのはとても辛いことで、24時間相手の気持ちに寄り添っていようとすれば、自分を追いつめてしまうことにもなりかねません。時に「悪い人」になることも必要なのです。

介護をめぐる家族の葛藤

2011年11月09日(水)

社会福祉士の実習記録の中からまた書いてみます。施設実習のデイサービスでは、施設の送迎バスに乗り、職員の方たちと一緒に利用者の送り迎えをしていました。ある日の記録にはこう書いています。

「送迎車が出発しても、いつまでも笑顔で手を振ってくださる家族に囲まれている利用者。その反対に、振り向くこともなくさっさと部屋に戻られてしまう家族。老いて体が不自由になってしまった親、あるいは夫、妻と、これまでそれぞれの家庭がどのような気持ちで生きてきたのかを垣間見る思いがした。

何十年もの間、家族、家庭を必死で守ってきた親や夫や妻。その労苦に見合うだけの、心満たされる終末期が用意されていてもよいと思うのだが、家族によっては、さまざまな葛藤を経て、素直に介護を受け入れることができなくなってしまっているのかもしれない。「家族」という関係は、他人以上に難しい。福祉に関わる者の立場としては、利用者の方には人として尊厳ある生き方を最後までして頂きたいし、生きてきたことを肯定できる老後を過ごして頂ければと思う。施設がそうしたことを実現する場となることに力を尽くしてみたいと思った。」

老いるということ・・・それは、家族も介護される方も認めたくないことなのではないでしょうか。どちらも老いにとまどい、収拾のつかない感情が双方に生まれてしまうことがあります。福祉というのは、高齢者の心、家族の心の葛藤をうまく掬い上げて援助してゆく仕事なのだと思います。でも、施設の職員は往々にして若い方が多く、複雑な心の内を察することは苦手だったように思います。母の介護の時にそのことを痛感しました。でもだからといって、私自身、実習で考えたことを母に実践したかというと・・・そんなことはなかったのです。家族という関係は、やはり難しいのです。

車椅子から立ち上がって歩いた

2011年11月11日(金)

社会福祉援助技術現場実習簿からです。毎日このことばかり書いているようですが、改めて読み直すと、思うところが山のようにあるのです。母のことと重ね合わせてしばらく書いてみたいと思っています。

施設ではいろいろな行事が行われます。新年会、お花見、花火大会、運動会、クリスマス会、そして誕生会。利用者のみなさんはうした行事を楽しみにされています。ある日の実習簿にはクリスマス会のことが書かれていました。もう10年以上前の話なので、詳しいことは忘れてしまいましたが、クリスマス会での楽器演奏のお話です。楽器演奏といってもタンバリンを叩いたり、マラカスを振ったりといった程度のものですが、それぞれの班に分かれて舞台にあがって演奏をするのです。

「利用者のFさんはトーンチャイムの演奏をとても上手にされていた。演奏が終わり、台上から車椅子を降ろそうとすると、突然Fさんが車椅子から立ち上がり『やったよね、やったよね』と私に抱きついてきて、涙をこぼしながら同意を求めるのだった。突然のことだったので戸惑ったが、それ以上に驚いたのが、せいぜい車椅子につかまって歩くことしかできないはずのFさんが自力で立ち上がり、2、3歩歩いて私に抱きついてこられたことだった。
達成感がFさんのエネルギーになったのだろう。合奏団員の一人としての責任を果たせたこと、それが、なによりも嬉しかったのだと思う。自分の存在を肯定できる場の提供、それもまた施設の果たすべき役割なのだということを実感した。」

車椅子から立ち上がって歩いたことを記憶していないのですが、必要とされたこと、それがFさんにとっては大変な喜びだったのだと思います。無表情な要介護者に笑顔が蘇る・・・それは介護をする人たちの気持ち次第なのかもしれません。私が母の介護をしていた時には、次第に笑顔を忘れてしまっていったように思いますが、無理をしてでも、口角をちょっぴり上げて暮らしていれば、少しはお互いの気持ちも穏やかになっていたかもわかりません。


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