2012年1月 | 親の介護☆泣くな騒ぐな寿司食いネエ!

2012年1月

お正月に思う言葉

2012年01月03日(火)

あけましておめでとうございます・・・という言葉がなんとなく胸につかえてしまう新年の始まりです。去年のお正月も、3月11日という日が待ち構えているなどとは夢に思うこともなく、きっとたくさんの方たちがこの言葉を口にされ、新しい年を祝われていたことと思います。その方たちの多くがお正月を迎えることができませんでした。蓮如上人の言葉に「朝には紅顔なれど夕方には白骨となれる身なり」という言葉があります。人間にとって生死の別れは絶え間なく続くもので、寿命に長短はあってもいずれはかなく死んでゆくもの、だからこそ一日一日を、一時一時を大切に過ごさなければならないという諌めなのでしょう。

それは自分の生についてばかりではありません。縁あって共に暮らしてきた両親や夫婦、兄弟姉妹と永遠に会えなくなる日が来る、その日のことを思うと、「今」という時がどれほど大切なものか・・・たまらなく愛おしく感じられます。親であれ子であれ夫であれ妻であれ、日常の中でさまざまな葛藤なしに暮らすことなんてとても難しいことですよね。でも、それもまたお互いが生きている証なんだと思います。母との葛藤を抱えながら介護を続けていた私は、今になって、母とのあの時この時をしばしば思い出しては悔やんでいるのです。生きている、生きていてくれる、そのことがどれほどすばらしいことだったか。もっともっと大事にしてあげれば良かったと。

お正月早々、なんだか暗い話になってしまいましたが、今年一年、何事もなく平穏に過ぎてゆきますようにと願わずにはいられません。介護をされている方々にとりましても、どうか穏やかな日々が過ぎてゆきますように。

階段のある家

2012年01月08日(日)

昨日観たテレビで、大分県のあるお宅を拝見しました。そのお宅は小高い丘のてっぺんにあって、玄関にたどり着くまでには階段を優に100段は登らなければならなそうでした。その階段を見て私が思ったのは、もし体が不自由になった時、それでもこの家に住めるだろうかということでした。私も昔、階段をちょっと登るような高台の家にあこがれていました。でも、社会福祉士の研修でデイサービスに行った時、ほんの数段・・・どころか、たった一歩の段差でも車椅子での搬送がものすごく難しいことを実感し、それ以来、平板な土地に立つ家がいいと思うようになりました。

玄関の敷居から車椅子を出す・・・それほど難しいことではないように思うかもわかりませんが、要介護者が100キロもあるような体躯の方なら男性職員でも搬送は難しく、家族総出で手伝ってもらって、やっとという感じでした。また、傾斜が緩くても斜面は危険で、車椅子はもとより、杖をついて歩ける要介護者でも、腰のあたりをしっかりと掴んでいないと倒れる危険性がありました。腰でも痛めようものなら、それを境にして高齢者はどんどん衰えてしまいますから、かなり神経を使いました。スロープに手すりをつけているご家庭もあり、これを伝って歩けば安全だとも思うのですが、これ、後ろにひっくり返ったりするんですよね。一人の歩行は避けたほうが無難です。

母も老いるに従って、わずか5センチの段差でも足が上がりきらなくなりましたから、階段を登る必要のある家だったらとても外出など無理になっていたかもしれません。でも、階段のある家で介護が必要になっても、施設の職員はデイサービスなどが利用できるよう、搬送の工夫をしてくれますから、積極的に福祉のプロの手を借りるようにしてください。閉じこもりは寝たきりにつながってしまう危険性がありますから、遠慮せずに手を借りましょう。

排泄の介護

2012年01月12日(木)

介護をするにあたっては、大変なこととか苦労することというのが山ほどあると思いますが、特に排尿・排便というのは毎日のことですし、臭いなどもあって辛く思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。施設実習の時、やはり一番辛く、やりたくないと思った仕事がオムツの交換と各部屋に置かれているポータブルトイレの掃除でした。いったん鼻についた臭いは一日中つきまとってしまいましたし、排泄物の入ったポータブルトイレの洗い場まで運ぶ時には、なんとも言われぬ複雑な心境になりました。

気持ちよくお世話をさせていただきたい、快適な生活を提供したいと思っても、こればかりは最後まで慣れることができなかったのは、福祉を綺麗ごとで済ませたい心理がどこかに働いていたからでしょうか。私の知人も社会福祉士を目指して勉強していましたが、施設実習での排泄のお世話がどうしてもできず、挫折してしまっています。自分だって同じように排泄しているのですし、人間の毎日の自然の営みなのに、自分以外の排便・排尿についてはトコトン忌み嫌うこの感覚って、面白いですね。

それほど苦痛だった排便・排尿の介護。ところが、母の排泄のお世話についてはイヤだと思ったことがありませんでした。ただただ、赤ん坊の私のオムツを世話してくれた母に同じ事をしている自分。それがなんとも不思議な感覚でした。

ユニバーサルデザイン

2012年01月13日(金)

私の友人にユニバーサルデザインというのを研究している人がいます。ユニバーサルデザインというのは、「すべての人のためのデザイン」という意味だそうで、高年齢だとか障害があるといったハンディに特化してのデザインというわけではなく、広く多くの人たちが快適にモノを使いこなせるように、あらゆる場面あらゆる道具をデザインする研究のようです。たとえば携帯電話の文字表示を見やすくするとか、小さくて押しにくいボタンを押しやすいボタンにデザインしなおすといったようなこともユニバーサルデザインというようで、友人からこ「これも、あれもユニバーサルデザインされている」と指摘されて、なるほどと思いました。

友人によると、ユニバーサルデザインの7原則というのがあって、それは環境やモノ、コミュニケーションなどすべてが含まれ、すべてこの原則に従ってデザインされることが好ましいのだそうです。というか、そういう方向性を目指してデザインするのだとか。次の7つが原則と言われているものです。

原則1:誰にでも公平に利用できること
原則2:使う上で自由度が高いこと
原則3:使い方が簡単ですぐわかること
原則4:必要な情報がすぐに理解できること
原則5:うっかりミスや危険につながらないデザインであること
原則6:無理な姿勢をとることなく,少ない力でも楽に使用できること
原則7:アクセスしやすいスペースと大きさを確保すること

身近なことでいつも思っているのですが、お風呂のお湯を入れる時の小さなボタンがものすごく小さくて押しにくいんですね。デザイン的に大きなボタンは「カッコワルイ」ということになって、たぶんこうなってしまったのだと思いますが、このデザインは力の入らない高齢者にはちょっと不便な代物です。デザインを優先するあまり「不便だけど我慢してね」というデザイナーは、弱者に対する想像力が欠如しているのかもしれません。

ユニバーサルデザインというのは結局のところ、誰にでも優しい社会を目指すということが基本になるのではないでしょうか。友人もそういう優しい心を持っている人です。

杖より先に介護予防

2012年01月16日(月)

掃除をしていたら、母が使っていた杖が玄関の片隅から出てきました。杖に必死でしがみついて歩いていた母の姿が思い出され、ちょっと切ない気分になってしまいました。杖というのはいったん使うと離れられなくなってしまうようで、母はそれまで杖がなくてもなんとか歩けていたのに、杖を持ってからというもの、絶対に杖を手放そうとはしなくなりました。確かに足元がおぼつかなかったし、よろけたりした時にとても不安定だったので杖なしの生活は無理だったとは思いますが。

でもでも、人間って頼るものが増えてゆくと、自分の力でなんとかしようとする気持ちがどんどん萎えてしまうような気がしたりもします。母も杖をつき始めてから姿勢が悪くなり、前のめりに歩くようになりました。人間って、背中を伸ばして歩かなければ歩けませんよね。前傾の姿勢ではつんのめってしまいますもん。ところが杖に頼れば、どんな姿勢でも歩けてしまう。だから杖依存の姿勢になっていってしまうのです。でも、それじゃあ、どうする?

杖が必要になっているのに杖をつくなとは言えませんし、介護する人が要介護者に肩を貸し続けるわけにもいきません。というわけで転ばぬ先の杖、「介護予防」に思いを馳せておきたいのです。介護予防というのは、要介護の状態になることをできるだけ防ぎ、あるいは要介護の状態をそれ以上悪化させないよう、できる限り自立した生活を送るために必要な予防策を講じることを言います。身体を動かさないでいればさらに体力が落ち、生活機能が低下してゆきますから、身の回りのことはできるだけ自分でするようにして、モノにあるいはヒトに頼らないという気持ちと体力を保持できるよう、若い頃から備えておきたいものです。

でも・・・介護予防の心がけを忘れちゃダメと、いつか老後を迎える自分にも言い聞かせているのですが、人間なんてどんな状態で年を取るのかわかりません。介護が必要になったからといって、自己責任を追及されてもなあなんて、つい思ったりも。


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